『セルフォンの赤い悪夢』1

2005年10月21日 (金)

セルフォンの赤い悪夢#10

 グナッデンの取引相手は偽名を使っており、結局、わからずじまいだった。警備隊はことの次第を王都セントメフィアの法務官に伝え、王立魔法科学研究所が獣を分析する手はずになっている。追って〈疾風の源〉亭では、獣の遺体を運ぶための護衛が募集され、そこそこの腕の傭兵たちが選ばれたようだった。
 残りの二体の獣はどこへ消えたのか。それを含め、警備隊の仕事は尽きない。
「ルルグがぼやいていたよ。最近は世の中が物騒過ぎる、家族と過ごす暇もありゃしないってね。どうも、また新たに連続誘拐事件なんかも発生しているようだし」
「冒険者には、ありがたい話かもしれないけどね」
 新たな事件は、また新たな冒険者の生活費の種になるに違いない。そう思いながら、リンファはカウンターの上で丸くなっている黒猫を撫でた。
 今は、朝食には遅く、昼食には早い時間帯だった。人気の高い〈疾風の源〉亭でも、この時間は空いている。
「それで、この子、どうするの?」
 のどを鳴らして喜ぶ猫を目で示し、スープを器に盛っているマスターに問う。
「張り紙でもして里親を捜そうかと思ってたんだけど、昨日一日で、ずいぶんここが気に入ったようで……いやねえ、普段は来ないような親子連れまで、また会いに来るって言うから……うちの看板猫にするのもいいかなと」
「マスターも、動物が好きなのね」
「そういうわけじゃ……ウェイトレスのシェサが、もう名前までつけちゃって、それで、さ」
 リンファの珍しい笑顔を向けられ、マスターは困ったように頬をかいた。
「名前、何にしたの?」
「フート、だってさ。エルカコムの古い部族のことばで、黒い天使、だと」
 自分が呼ばれたと思ったのか、黒猫が返事をするように、にゃあ、と鳴いた。
 すっかり馴染んだ様子にマスターは苦笑して、スープと柔らかい焼きたてのパンを載せた盆をカウンターに置く。
「しばらく、うちでゆっくりしていくといい。ときには、長期休暇も必要だからね」
「そうさせてもらうわ……彼が、長い間ひとつのところに留まろうとしてくれるならいいんだけどね」
 盆を受け取り、彼女は二階に向かった。〈疾風の源〉亭の宿泊用の部屋が空いたので、近くの宿から移って来たのだ。
 隅にある部屋に戻ると、目に馴染んだ姿が、端に備え付けられたベッドに横たわっていた。カーテンを引いた窓からの淡い光で、ベッドの上に長い髪を流した、いつもに増して女性的な横顔が照らされている。
 眠ってはいなかったのか、彼は入ってきた気配で目を開く。
「マスターがせっかく作ってくれたなら、残せないね」
 盆の上で湯気を立てている料理を見て、彼は苦笑交じりに言う。
「無理はしなくていいの。食べられるなら、それが一番だけど」
 白い長袖の襟付きシャツ姿のシリスは、乱れた髪を撫で付けながら、上体を起こす。昨夜は青ざめていた頬には赤みが差し、むしろ、普段より色づいていた。
 ベッドの横の机に盆を置き、引き寄せた木椅子に腰を下ろすと、リンファは熱を計るように、相手の額に手を当てた。
「だいぶ下がったみたいだけど……ちゃんと、すっかり治るまでは休んでいなくては駄目よ。風邪は万病のもと、って言うんだから」
 シリスは、わずかに上気した顔に、嬉しそうなほほ笑みを浮かべた。
「わかってるよ」
「口で言うのは簡単なんだけどね」
 数々の無茶を覚えている美女は、形のいい眉をひそめ、スプーンで野菜と魚肉の団子入りのスープをすくう。
「ほら、口を開けて」
 おいしそうな香りを漂わせるスプーンの先を押し付けられて、シリスの目が点になる。
「食べないの?」
「いや、食べますけど……あの、な……何でもないです」
 観念したのか、シリスは口を開き、スープがなくなるまで、リンファに食べさせられる。食欲がなかったのも、ついでにスープの味も、頭の中からどこかへ飛んで行った。彼の頬が熱だけではない理由で赤く染まっていることに、リンファは気づかない。
「あなたの具合が悪かったとはいえ、あれだけ苦戦した獣があと二体も野放しになってるなんてね。何だか、余りすっきりした解決にはならなかったわね」
 空になった食器を盆に戻し、不意に、リンファは昨夜のぎりぎりの戦いを思い出したように言う。
「うん……一体誰が、カナルに獣を生み出すのを依頼したんだろう」
 ベッドに入って毛布を被り、すねたようにパンをかじっていたシリスが、魔女の疑問に応じた。
「そんな物騒なものを作ったんだもの。カナルにも、それなりの動機があったのでしょうね。彼自身、利用するつもりだったのかもしれない」
「そうかな……」
 言いかけるシリスに、あの猫のことを考えれば、気持ちはわかるけど――と、リンファは口を開きかけ、やめる。今は余り、落ち込ませるようなことは言いたくなかった。
 しかし、彼女の予想に反し、シリスは確信を持っているようだった。
「獣は、カナルのところに戻って来るって、グナッデンが言っていたじゃないか。きっと、獣にとってのカナルは、信頼できる人だったんだよ。そうでなければ、戻ってくる習性なんて、顧客にとって邪魔にしかならないはずだよ」
 少し速い呼吸を繰り返し、整えて、彼は続ける。
「彼らにも、本当は人間と同じだけの知能や感情が、持てたかも知れないのに……普通の人間として暮らせたかもしれない」
「カナルは、誰かに脅されていたのかもしれないわね。だから、獣にそこまでの知能を与えるわけにはいかなかったのでしょう」
 カナルやグナッデンの取引相手の姿をくらます手腕を考えれば、獣を欲した者たちは、かなりの力を持っているのだろう。権力、金、戦力、経験――あるいは、それらすべてを備えた存在か。
「物騒な目的を持った人間が、そもそもの元凶ね」
「何か、大きな事件につながらなければいいな」
 毛布を掛けなおしてやりながら、リンファはうなずく。
「それにしても、他の二体も、逃げ出したらセルフォンに戻ろうとするのかしら。今回のように街中で出会うと厄介だと思うの。せめて郊外で会えば、一気に片付けられるんだけど」
「リンファ……ルルグさんの剣が獣に効いて良かったよ」
 熱のせいで少し潤んだ目で、病人は美しい顔を見上げた。
「もしリンファが大技を使っていたら、きっとスラムの大半は吹き飛んで痛っ!」
「そうならなくてよかったわね」
 否定もせず平然と言ってのけながら、魔女は、頬をつねられ大げさに悲鳴を上げるシリスの額に、濡れたタオルをのせてやった。


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2005年10月20日 (木)

セルフォンの赤い悪夢#09

 獣の、戦闘のための本能か、知識か。何かを察したらしい目が怒りに燃え、十字の刃を投げつける。
 ルルグと立ち直った警備隊員が、刃を叩きつけた。火花が散り、いくらか勢いがそがれる。
「〈ボムフィスト〉」
 シリスがリンファまでの直線上に入り、弾き落とす。そして、急いで刃に伸びてきた糸を切った。
 だが、今回伸びて来た糸は、刃に向かったものだけではなかった。
 糸を切って刃を踏みつけ、身を起こそうとして、彼は左手が引っ張られるのを感じる。視線を落とすと、手首に白い糸が巻き付いていた。
 まずい、と糸に槍の刃をあてがった、刹那。
 その身体が弾かれたように、びくん、と痙攣した。青白い火花が槍から散り、引き攣ったように伸びた身体が、次の瞬間には前のめりに崩れ落ちる。
「シリス!」
 戦場から間合いを取る目的を忘れ、リンファが引き返す。
 獣が跳躍した。石畳の上で小さくもがく吟遊詩人のそばに、地面を大きく振動させながら着地する。
 リンファがシリスの前に入り、獣が爪を振り下ろし、ルルグが剣を投げつけるのが同時だった。
 痛みをこらえて見上げるシリスの頬に、赤い雫が落ちる。獣の爪が、リンファの左肩を深くえぐる。白い衣が、血に染まる。滑らかな肌を、長く鋭い爪が貫いている光景が、痛々しい。
 偶然の一撃だった。
 反射的に突き出したリンファのレイピアは、獣の眉間に軽く当たり、止まっていた。そのレイピアの先を見上げた、獣の左目――そこに、ルルグの投げた剣が突き立っていた。
 痛みも、常に平常心を失わない一流の女魔術師には、問題にならないようだった。
 背後でシリスが呪文を唱えているのを聞きながら、彼女は素早く、満月に近い緋の月の破壊の力を導いていく。
 彼女の白く美しい手は、獣の右目に突き立つ剣の柄に軽く触れた。
「〈ライトニング〉」
 仕返しだというかのように、淡々と、氷のように冷たい一言で、青白い電撃の牙を閃かせる。
 どれほど分厚い筋肉や硬い皮膚を持っていても、身体の中までは鍛えることができないだろう。その事実を、彼女はただ、証明してみせる。
 剣に貫かれたまま、獣が転げ回る。頭を抱え、苦痛に呻く。獣ではなく、ただの人間であるかのように。
 それを冷めた目で見つめるリンファの腕に、何か、温かいものが触れた。
「〈ヒーリング〉」
 再生と保護を司る蒼の月の力が、光となって彼女の肩を包み、血を流し続けていた傷を塞いだ。
 思い出したように振り返り、横たわる身体を仰向けにして上体を抱き寄せると、頭が力なくがくり落ちる。
「無茶をしたわね」
 脈をとって気を失っているのを確かめると、紅い月光に照らし出された可憐な横顔が、小さく笑みを浮かべた。

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2005年10月19日 (水)

セルフォンの赤い悪夢#08

「全身武器みたいだな」
 傭兵の一人が舌打ちして、大剣を手に獣へ肉薄する。それに、警備隊員二人も続いた。
 しかし、その足を、何かに絡め取られる。
 倒れ込む彼らの身に何が起こったのか。一歩前に出るなり、リンファは身を持ってそれを知る。
 獣の、かざした左手。その指先から、極細の糸が伸び、足首にからみついていた。
「リンファ!」
 シリスが慌てて、槍を振り上げる。先端についた女神像の翼が刃になっており、封魔槍デウスの名をとるその槍は、切り裂くこともできるように作られていた。
 シリスが糸を切るとほぼ同時に、シューッと音をたて、無数の蜘蛛の糸のようなものが獣の手から発射された。足を取られていた傭兵たちと警備隊員二人は、さらに縛り上げられる。
「動くな、じっとしてろ」
 ルルグとエリーナに治療された警備隊員が、繭のように重ねられた糸から仲間を助け出そうと駆けつけた。
 その間に、白い糸を指先から離し、獣が動きを開始する。
 身動きが取れるのは、シリスとリンファ、それにエリーナだけだ。
 獣は、動けない相手に向かおうとしていたところを、立ち塞がる相手に、あっさり標的を移す。
 効率や安全性ではない。戦闘意欲。血を求める本能。それが、獣の行動の最上位にあるらしい。
 そして、その肉体の限界まで改造された筋肉は、獣の欲望に忠実な瞬発力と破壊力を生み出す。
「くっ……!」
 五歩の距離が、一瞬で詰められた。ほとんど勘で身を引いたシリスの左肩を、長い牙がかすめ、丈夫な旅用の服を軽く裂き、浅く肌をえぐる。
 その脇を過ぎた獣は前転して、標的に向き直る。
 間合いを取り過ぎると、攻撃が当たらない。しかし、今の間合いでは、相手の速さにはついていけない。
 肩の痛みを意識の外に追い出し、槍をかまえ、シリスは感覚を研ぎ澄ます。向かってくるのはわかっているのだから、接触する瞬間に突きを見舞うしかない。
 音もなく、赤い獣の足が動いた。
「〈ボムフィスト〉!」
 敵の姿は見えない。リンファはただ、シリスの前に衝撃波を放つ。
 足止めの一撃は、その役目を果たした。獣の身体が横に倒れかけ、わずかな間、動きが止まる。
 そこへ、いつでも打ち込める体勢でいたシリスが、隙を逃さず、槍の鋭い穂先を突き出した。
 鱗の間に、刃が食い込む。確かな手応えが伝わる。
 仲間の手でやっと糸から解放された傭兵や警備隊員たちが、期待の目で見上げた。これで、この命を削る戦いにも、終幕が降ろされるかもしれないと。
 しかし、彼らの目に映ったのは、青白い火花を散らす槍から、のけぞりながら慌てて跳び退くシリスの姿だった。
 槍は、確かに獣の腹に突き立っていた。だが、致命傷にならない、浅い傷である。
 いつもの体調なら、今ので仕留めていたはずだ。
 周囲の者よりショックを受けながら、シリスは後ずさった。獣が槍を腹から抜いて放り投げ、追いすがるのを、リンファが魔法で妨害する。
 獣は足を止め、腕を振り上げた。
「次は何を出すつもりだ?」
 糸から解放された傭兵が、大剣を両手で握りしめながら、警戒の目を向ける。
 獣は、左右の腕から突き出ていた刃を力任せに引いた。わずかに血を滴らせて、刃を十字に組み合わせたものが抜き出される。それを、獣は器用に、同時に投げ放った。
 闇のなかを舞う刃に、血しぶきと悲鳴が上がる。小さな銀光の奇襲を受けて、警備隊員二人が倒れる。
 駆けつけたエリーナが顔をしかめながら呪文を唱え始めた。彼女の表情を目にした者は、毒が塗られていたらしいと気づく。
「〈ボムフィスト〉!」
 リンファが何度も刃を弾くが、それは即座に必ず獣の腕に戻り、獣が投げ放つと、また新たな悲鳴が上がる。
 槍を拾い上げたシリスは、地面に撃ち落された十字の刃に糸が伸び、獣の元に引き戻されるのを見た。腕力だけではなく、糸を使い、自在に操っているのだ。
 傭兵たちが傷を追いながらも獣に駆け寄る後ろで、シリスは糸を切った。リンファが弾き飛ばしては獣が糸を絡ませるのを、そのたびに断ち切る。
 オオオォォ……!
 イラついたように、獣が吼えた。そして、傭兵の脇をかすめるように跳ぶ。
「がっ!」
 爪が、革の鎧ごと、傭兵の脇腹を切り裂く。
 その隙に、もう一人の傭兵が横薙ぎの一撃を振るう。だが、獣の毛むくじゃらの皮膚は、想像以上に硬いのか。それとも、毛に刃が滑って力が入らなかったのか。
 それは、浅く表面を傷つけただけに終わる。
 獣の瞬発力は凄まじい。すぐに反撃が来る。
「〈ヘイルストーム〉!」
 リンファが、無数の氷のつぶてを獣に投げつけた。獣が視界を失う間に、傭兵は第二撃を叩き込む。
 感触で、傭兵は目を見開く。
 その剣を、獣の手が軽く受け止めていた。長年剣を手に戦場を渡り歩いてきた、飾り物ではない筋肉を身につけたベテラン剣士の剣が。
 踏み込みも、力の入れ方も斬り込み方も、完璧な一撃だったはずだ。
 十字の刃を打ち出しながら、獣は剣ごと、驚きで少しの間動きの止まった傭兵を地面に叩きつける。何かが折れるような、鈍い音がした。
「大技が必要かもしれないわね」
 壁となる剣士たちの大部分が倒れ、獣の脅威が目の前に迫る中でも、リンファの声は平然としていた。
「少し離れたところにいるから、合図をしたら逃げて」
「わかりました」
 負傷者たちと、それを治療するエリーナをかばうように前に出たルルグが、余計なことは聞かず、簡潔に応じる。
 リンファは、獣から間をとろうとした。もともと離れた場所にいた彼女にとっては、容易なこと――の、はずだった。

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2005年10月18日 (火)

セルフォンの赤い悪夢#07

 おびき出す場に選ばれたのは、通路を封鎖する必要もない、血の匂いを充満させても苦情の来ない、スラムだった。創造主であるカナルを探しているというなら、やはりスラムに潜んでいる可能性が高いだろう、というのがリンファの見立てだった。
 グナッデンを捕らえてから陽が落ちるまでの間に、警備隊の詰め所で、一行は獣についての詳細を聞き出している。
 獣は、鋭い爪と牙、爛々と赤く輝く目を持っていること。その筋力は、人間はもちろん、普通の獣も及ばぬほど強力であること。姿を消すことはできるが、影までは消せないこと。そして――その姿は、人間を基礎にしていること。
「脳は人間のものだし、知能もそれなりに高いかもしれないわね」
 瓦礫を利用して作った洞穴のような空間に身を寄せて、リンファは夜闇に目を凝らしていた。
 彼女のそばには、毛布を膝にかけたシリスと、警備隊からの応援要請で作戦に参加することになった、愛の女神ミュレーアの神官、エリーナが待機している。
 エリーナは二〇代後半の、ゆるくウェーブがかかったブロンドを持つ、落ち着いた雰囲気をまとった女性だった。カルヴェラ革命時に負傷者の救済に当たった神官たちのうちの一人で、当時カルヴェラを訪れていたシリスとリンファとも面識があった。
「あれからずいぶん経つのに、お二人は本当にお変わりになりませんね。綺麗なままですわ」
 ミュレーアの赤い紋章が縫い付けられた白い法衣と帽子姿で、彼女は柔らかいほほ笑みを浮かべた。
「あなたも、充分若々しいままよ。でも、昔に比べると、神官としての落ち着きや風格もあるわ」
「ふふ、ありがとうございます」
 リンファは、お世辞は言わない。そのことを知っているエリーナは、嬉しそうにほほ笑んだ。
 静かな、冷ややかな夜だった。周囲には警備隊の隊員たちが潜んでいるはずだが、上手く気配を消しているらしい。空には星々が瞬き、破壊と革新の力を司る緋の月が、満月に近い形で浮かび上がる。魔法により導かれるその力も、やはり力の源となる月が満月に近いほど強力になる。
 風向きのせいか、血生臭い匂いも届かない。澄んだ空気が辺りを支配し、それはどんな小さな異変も伝えてくれそうだった。
「今までの出没時間だと、人々のほとんどが眠った頃が多いわね。でも、外を歩く者が完全には途絶えない、そんな時間」
 リンファが今までの犠牲者についてまとめたメモを見ながら、退屈な時間を埋めるように、自らの考えを口にした。
「求めるものがすぐそこにあるから、今夜はいつもと勝手が違うかもしれないけど」
 夜が深まるにつれ、気温もどんどん下がっていく。かすかに震える声を上げ、シリスは毛布を抱いた。
「また、コートを着てきたほうが良かったんじゃない?」
「ああ……」
 猫の毛だらけになったコートを宿に置いて来た吟遊詩人は、相棒のことばに答えようと口を開きかけ、急に立ち上がった。
 何か、黒く冷たいものが心の底に湧き上ってくるような、奇妙な感覚。今までも覚えのある、異変が起きる前兆。その嫌な予感に、何度助けられたことか。
 付き合いの長いリンファは、すぐにシリスが感じたものを察し、レイピアの柄に手をやった。
 途端に、悲鳴にも似た、甲高い音が夜の静寂を切り裂く。周囲に潜む警備隊員たちの、警笛の音だ。
「来ましたか……!」
 杖を手に、エリーナも立ち上がる。すでに、シリスとリンファは闇の中へと駆け出していた。
 警備隊たちと三人は、十字路に置かれた囮を取り囲むような位置に陣取った。周囲から囮の上に向けて、いくつもの魔法の光が飛ばされる。警備隊にも、下位魔法なら使えるものが何人かいるらしい。
 シリスとリンファ、エリーナ、警備隊員が四人と、今回のために雇われたらしい、傭兵らしき剣士が二人。慎重にそれぞれの武器を手にして、食い散らかされた動物の内臓を囲んでいた。
 鼻をつく血の匂いに顔をしかめながら、リンファは抜き放ったレイピアをかまえ、シリスも背負っていた槍を右手に握る。
 地面を照らす明りの中に、影が揺れた。丸まったようなその形は、腰を落とした人間のものだと、今は知れている。
 影は、周囲に現われた気配に気づくと、むさぼっていた臓物を放り捨てた。そして、小さく身体を揺らす。
 不思議がっているのか。怯え、警戒しているのか。
 否、そのどれでもないことを、一同は間もなく思い知る。
「あああ!」
 叫びがスラムに響いた。警備隊員の一人が、左腕から血を噴き出し、カンテラを落とす。
 そばにいた警備隊員が、何もないかに見える空間に剣を突き出した。
 ひゅおおぉぉぉぉぉ……
 人とも獣のものともつかない咆哮が、冷たい空気を震わせる。赤い血が、石畳の上に線を引いた。
「怯むな、行け!」
 負傷者を治癒の魔法の使い手であるエリーナに任せ、ルルグが号令をかける。剣を手に警備隊員と傭兵たちが駆け寄り、シリスとリンファは呪文を唱えた。
 相手は、多くの魔物たちの能力を付け加えられた、合成獣だ。油断はできない。
 そう、肝に銘じる二人の前で、剣を手にした五人は、逃げ道を作らないよう、上手く相手を追い詰めていく。
「いいぞ、一旦下がれ!」
 ルルグが指示して場所を開けさせると、彼は、拳大の玉を投げつけた。中には色粉を溶かした水が詰められており、赤い水が獣の姿を浮き上がらせた。まるで、すでに血まみれになったような凄惨な姿。
 太い腕と脚は長い体毛が生え、肌は硬い鱗状の鎧に包まれた、戦獣。髪は無造作に伸ばされ、鋭い目は殺意にきらめき、口からは長い牙が伸びている。
 獣は舌なめずりすると、巨体を縮め、跳んだ。
 怯んだ警備隊員の一人が慌ててかわそうとするが、間に合わない。重い身体は予想以上の速さで落下した。
「〈ボムフィスト〉!」
 唱えていた呪文を中断し、シリスが押し潰されかけている警備隊員を助けた。衝撃波をぶつけられた獣はわずかに身体の軸を傾け、宙で身を回転させてバランスを取り戻し、少し離れた所に着地する。
「〈フレアブラスト〉」
 リンファが、指先から高熱の赤い光線を放つ。
 獣は、軽く腕を振った。太い腕を覆う籠手のような鱗の隙間から、鋭い刃が突き出る。鏡のように滑らかな刀身が光線を跳ね返し、背後の地面に爆発を起こす。
 魔法を防がれたことは、何度もある。それでも、この予想外の防ぎ方に、魔術師はわずかに表情を変えた。

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2005年10月17日 (月)

セルフォンの赤い悪夢#06

「ふうっ!」
 何か、格闘術の心得があるのか。グナッデンは身がまえると、鋭く息を吐いて跳躍した。一見痩せ型に見える身体は、それなりに鍛えられているらしい。
 リンファの前に出ると、シリスは両手に槍をかまえ、地面を踏みしめる。
 今の体調では、まともにぶつかれば受け止めきれない。相手が一撃を放つ前に、リーチの長さを活かして、先に打ち落とすしかない。
 じっと相手の動きを見据え、できるだけ引き付けて、みぞおちに石突きを叩き込む。
 だが、突き出した槍の柄の先に彼が感じたのは、予想より固い感触だった。
 グナッデンの左手が、胸の中央の前で石突きを受け止めていた。指の何本かは折れているだろうが、男は意に介さず、体重をかけた右手の一撃を打ち込もうとする。確実に相手を倒し、逃走路をつくるために。
 上から体重をかけられると身動きが取れなくなるので、シリスは槍を手放し、グナッデンの着地点から、半歩横に移動した。男の右手は、それを追うように伸びて来る。
「はっ」
 腰を落として突き出された手をかわし、地面に着いたばかりの足もとに、足払いをかける。バランスを崩し、身体の制御を失ったグナッデンの腕を取ると、素早く後ろから体重をかけ、地面に押し付けた。
 警備隊員たちに劣らぬ拘束術に感心しながら、ルルグたちがロープを持って駆けつける。
「くそっ……」
 パーレル・グナッデンは悪態をつきながらも、もはやこれまでと、観念したらしい。
「お疲れさま」
 肩で息をしているシリスをグナッデンから引き離し、魔女は肩を貸した。
 二人の目の前で、警備隊は手際よく、男を丈夫なロープで縛り上げていく。自由を奪われた男は、鋭い目で地面をにらんでいる。
「お前も、最近夜に起きている事件を知っているだろう。錬金術師カナルの研究が関係しているというが、お前も、わかっていたようだな」
「そろそろ来ると思ってたよ」
 ルルグの問いに、男は吐き捨てるように言った。どうやら、二人は以前も顔を合わせたことがあるらしい。
「でも、オレが売ったのは一体だけだぜ。後の二体は知らねえ。他に売られた一体が逃げ出したっていう噂を聞いたから、それがカナルを捜して戻って来たんだろ」
「売ったって……何を?」
 ようやく呼吸を整え、シリスが、周囲の者たちが一番ききたいことを口にする。
 グナッデンは、大きく息をついた。
「どこかのお偉いさんがカナルに依頼して創らせた、戦闘用の獣さ。闇市で噂を聞きつけて手を出したはいいが、同じ馬車にいるだけでも、気が気じゃなかったぜ……檻の中にいるのに、今にも殺されそうなくらいの殺気を感じたからな」
「その獣には、姿を消す能力はあるの?」
 美女がのぞき込むと、彼は少し驚いたように目を見開く。
「あ、ああ……何せ、戦いに役立つような能力は、かたっぱしから付け加えたそうだからな。あちこちから魔物を捉えて、それを合成していったんだそうだ」
 そこまで語り終えると、彼は黙って話を聞いていたルルグを見上げ、
「なあ、ここまで話したんだ。こっちだって、処分を押し付けられたようなもんだぜ。勘弁してくれよ、おっさん」
「関係者の犯人逮捕にも協力するというなら、ある程度考えてやってもいいな」
 哀れを装った声を上げるのに、ベテラン警備隊員は、仕方なさそうに肩をすくめた。
「その前に、肝心のことを教えてもらわなければならんな。……獣をおびき出すには、どうすればいい?」
「あいつらは、血が好きなのさ。夜に豚の内臓でもぶちまけておけば、寄って来るんじゃねえか?」
 心を見透かすような目に、グナッデンは首をすくめて答えた。

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2005年10月15日 (土)

セルフォンの赤い悪夢#05

 なかは、家の広さの数倍はある様子だった。明りに照らされている辺りには本の切れ端やメモらしきものが散乱しているが、壁際に並ぶ本棚は空になっている。
 とりあえず、敵意や殺気は感じない。半分闇に溶け込んだベッドにも、その周囲にも、人の気配はなかった。
「様子はどう?」
 出入口から、リンファがのぞき込む。正方形の青空を背景にしたその姿を、眩しそうに見上げながら、茶色のコートを着込んだ吟遊詩人はうなずいた。
「もぬけのカラだよ……でも、その辺の書類に何か書いてあるかもしれない。これは、古代文字のようだね」
「それじゃあ、わたしの力が必要ね」
 魔女は、ふっと、嬉しそうにほほ笑んだ。他人には、滅多に見せることのない笑み。
 その笑顔もほんのわずかな間に消え、ふわり、と地下室の床に降り立つ。
「実験道具も全部持ち出されている……ということは、革命を逃げ延びたのかしら」
「その辺の暗いところで干からびてないといいけど」
「じゃあ、捜してみる? ……冗談よ、それなら、誰が実験道具や本を持ち出したのか、ということになるもの。それなりの魔術師が時間をかければできそうだけど、カナルに魔術師の知り合いはいないようだし」
 すべての私有物を持ち出すような面倒なことを、本人以外がするかしら、と、彼女はつけ加える。
「ここに散らばってる物も、本人にとっても余り意味の無いような物ばかり……」
 床に落ちている紙切れをかき集め、目を通しては後ろに放り、第二の山を築いていく。
「ゼッカロダケ四本……今日の天気は晴れ、明日は雨と予想する……ビーフシチューの作り方……固い肉は、アカニ草と一緒に煮ればよい……」
「料理好きな人だったのかな」
 となりで膝を抱えてうずくまるシリスが、ぽつりと感想を口にした。
「肉は、実験の残りかもしれないわ。人間のものだったりして」
「怖いこと言わないでよ……」
 いつも聞かないような弱気なつぶやきを耳にして、リンファはシリスの顔色をのぞこうとした。
 彼女がそっと身をのり出した、静寂の支配するはずの数秒の間に、
 ガサッ。
 と、衣擦れの音が鳴る。
「誰?」
 声をかけながら、シリスが跳ね起きる。右手の、先端に小さな女神像が刻まれた槍の穂先は、ベッドのほうに向けられていた。
 もちろん風はないというのに、端から垂れ下がったベッドのシーツが揺れる。
 リンファが、光球をベッドのそばに飛ばした。周囲の闇が、取り払われる。しかし、不意にめくれ上がったシーツの下から現われたのは、闇色のもの。
 リンファは肩をすくめ、シリスは目を見開いてほほ笑んだ。
 黒い毛の塊が、みゃあ、と一声鳴いて、足もとに擦り寄ってくる。
「良く、今まで生きてたわね……あった、長持ちキャットフード」
 丸められていたメモの一つを広げ、リンファは納得し、同時に呆れた。
「おいで。寂しかったかい?」
 シリスは顔をほころばせると、擦り寄ってきた猫を抱え上げた。黒猫は大人しく、その腕の中で丸くなる。
 暖かな毛に頬を寄せ、彼は、少しいたずらっぽくほほ笑む。
「ねえ、リンファ……きっと、ここの錬金術師はいい人だよ」
「動物が好きだから?」
「猫のために、新しい食べ物を作ってあげる人だよ。カナルさんは、動物に対する新しい食文化を研究していたに違いない」
「そう、文献で読んだの?」
 天井に視線を泳がせながら、根拠のない結論を出す吟遊詩人に、美女は冷めたような、おもしろがるような、奇妙な目を向ける。
「この子は、使い魔、というやつかな?」
「魔力は感じないけど、使い魔にしようと育てていたのかもしれないわね……ほら、借り物のコートに毛がつくわよ」
 苦笑して、黒猫から馴染み深い横顔に視線を移動すると、リンファはその視界に、白い紙切れを捉える。どうやら、本棚の影になっていたものが猫にひっかけられ、通路に出てきたらしい。
 どうせ紙屑が増えるだけだろうと思いながら、彼女はそれを拾い上げた。
 途端に、その目が細められる。
「何か書いてたのかい?」
 まるで今までずっとそこを寝床にしていたかのように、のどを鳴らしてくつろぐ猫の頭をなでながら、シリスは眉をひそめ、相棒の手元をのぞく。
「パーレル・グナッデン、午後二時……これだけね。でも……」
「セルフォンにいると楽なんだけどね」
 やっと手がかりを手にした二人のことばに、ふにゃ、と猫が声を上げた。

 スラムを出て猫を〈疾風の源〉亭のマスターに預けた二人は、昼食も取らず、警備隊の詰め所に駆け込んだ。
 ベテラン警備隊員の一人が、グナッデンの名を知っていた。詐欺の前科があるという男が住む東区に、シリスとリンファに、ベテラン警備隊員三人が加わり、二人が来たときと同じく、慌しく出発していく。
 夜になれば、また、犠牲者が出る。それまでに、事件を解決してしまいたかった。
「この先です」
 建物の角で、先導していた隊員が声をかける。ルルグという名の、〈疾風の源〉亭のマスターの旧友の一人だった。
「詰め所に来る間に前を通りますが、少なくとも、今朝は家にいたはずです。表と裏に別れて捕らえましょう」
「では、わたしたちが裏に回りましょう」
 丁寧な物腰の警備隊員に応じて、リンファがシリスとともに、東通から一本前の小路に入る。
 シリスは、コートを宿の部屋に置き、マントを着けていた。陽は頂点まで高く昇り、多くの人々には暑いほど気温が高く、今の彼にとっても快適だった。
 警備隊の動きに遅れないよう、彼らは早足でグナッデンの家の裏に向かう。
 小路に、他に通行人の姿はない。周囲は静かで、背の高い建物が多いせいか、少し薄暗い雰囲気を漂わせていた。
「あそこか」
 並びの中でも小さな、木造の家がパーレル・グナッデンの家らしかった。裏口のドアが、軽く開いている。
 開いている……?
 一瞬、二人はそれが意味するものに気づかなかった。奥に誰がいる気配もなく、半開きになったドア。足音につられて目をやると、後ろを気にしながら走る、布を頭に巻きつけた男。
 そこまで見て、初めて二人は駆け出した。
「グナッデンはこっちよ! 急いで!」
 表側にいるはずの警備隊に声を張り上げながら、レイピアを抜き、呪文を唱え始める。普通に追いついて捕まえるためには、気づくのが遅過ぎた。
 距離が開いているので、魔法で何とかしなければならない。だが、走りながら精神を集中して魔法を使うまでには、シリスは快復していない。重い身体をひきずりつつ、彼は無力感で唇をかむ。
 となりで、魔術師が射程の長い下位攻撃魔法を放つ。
「〈エアボミング〉」
 爆風が、グナッデンの背中に押し寄せた。足を取られ、男は転倒する。立ち上がろうとする男の前に、先回りした警備隊員たちが姿を現わした。
「パーレル・グナッデン、観念しろ!」
「お前が錬金術師カナルに関係しているのは調べがついている。神妙にしろ」
 パンジーヒア王国の紋章が刻まれた剣を手に、三人の警備隊たちが声を上げる。
 後ろには、追いついたシリスとリンファ。男は慌てた様子で、前と後ろの顔ぶれを何度か見比べ――
 やはり、体格のいい警備隊員たちより、美しくも華奢な二人組みを選んだようだった。

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2005年10月14日 (金)

セルフォンの赤い悪夢#04

 翌朝、夜のうちに雨雲はどこかへ吹き散らされたのか、空は異変など何事も無かったかのように晴れ渡った。ただ、地上に点々と残る痕跡が、その小さな水面に青空を切り取っている。
 雨も夜も去り、セルフォンの大部分は活気ある貿易都市の姿を取り戻している。市内にいながら、あえてその活気から離れようという者は、数少ないに違いない。
 その数少ない者のなかにシリスとリンファが加わったのは、間もなく昼食時になろうかという時間帯だった。
「大丈夫?」
 少し頼りない足取りのシリスを振り向き、美女は声をかけた。
 吟遊詩人は、〈疾風の源〉亭のマスターに借りた、少し大きめの毛皮のコートをまとっていた。いつも身に着けている、丈夫な繊維で織られたマントがないのを本人は不安に思うが、今は彼にとって、刃や攻撃魔法より、寒さを防ぐほうが重要なのだ。
 昨夜より幾分顔色も良くなっていたものの、身体がだるいのか、その動きは鈍い。
「ああ、何とか……今日が、暖かい日で助かったよ。できるだけ気温が高いうちに、解決できるといいな」
 リンファの横に立つと、彼はルビーのような瞳を、周囲に向ける。
 焼け焦げ、朽ち果てた家々に、ひび割れた石畳。ところどころ、何か黒いものがこびりつき、かすかに残る嫌な臭いを放つ。
 何度か清掃も行われ、どのようにこのスラム街跡地を使うかという案も色々と出されている。しかし結局、未だ放置されたままだ。
 普段、立ち入り禁止になっているが、時折、そばを通りかかった者が奇妙な明りを見た、足の無い女を見たと言って噂になる。セルフォンの人々と旧スラム街の関わりは、大体その程度のものだった。
「スラム街の、北の端……だったね」
 街を囲む城壁に突き当たり、二人は壁沿いに北へと歩き出す。
 シリスが覚えていた錬金術師について、警備隊が市の記録を調べたところ、スラム街に住んでいたカナルという名の男が浮上した。男はスラム街の端に小さな家を持っていたが、革命のときに焼け出され、行方不明だという。
「何か、手がかりでも残っているといいけど」
 望みは薄いだろうと思いながら、シリスは歩いた。在りし日のスラムの姿を、頭に浮かべて。
 古い木の板を組み合わせただけの家や、藁を敷いた上に身を寄せ合う一家、布をつなげて屋根にした家の下から目を覗かせる幼い兄弟たち。
 出自を隠し、今もセルフォンで暮らす元住民はいる。だが、大部分のスラムの人々は、カルヴェラ王の命で放たれた火により、生きながら焼け死んでいった。
「嫌なことを考えているでしょう?」
「えっ」
 リンファのことばが、シリスを追憶から引き戻す。美女は歩調を合わせて歩きながら、横から青年の顔をのぞき込んでいた。
「病は気から……なんて信じてないけど、余計に疲れるのは確かだと思うの。悪い思い出なんて、早く忘れてしまいなさい」
 少し年上ぶって注意する相手に、シリスはできるだけいつもと同じものになるよう努力しながら、柔らかいほほ笑みを浮かべて見せた。
「ありがとう。前向きに考えないと、解決するものもしなくなるものね」
「でも、前向きと無理も別物だから、それも忘れないで」
 注文をつけながら、しなやかな手がレイピアの柄を確かめる。彼女が目をやる先には、黒く煤けた、木造の小さな家の残骸が散乱していた。
 それは、他の家々とは少し離れた所に、ぽつんと立っていた様子だった。木造で粗末な家とはいえ、周囲のものと比べると、かなり立派な、家らしい家の造りになる。
 リンファは残骸の中に魔力を感じないことを確かめてから、進んで玄関のあった辺りに踏み込んだ。その気遣いに気づきながら、シリスも続く。
「本の一冊も残っていれば儲けものだと思っていたけど、さすがにそれはなさそうね。何もかも燃えてしまったのかしら」
 鞘に入ったままのレイピアを手に、それを隙間に挿し込み、炭化した木の端が積もった奥を探る。黒い粉がそれを待っていたかのように噴き出し、周囲を舞った。
 とっさに息を止め、うっとうしげに扇いで埃を散らす。後ろで咳き込むシリスを気にしながら、木炭の下からレイピアの先を引き出そうとして、リンファは、その先端が何かに引っかかるのを感じた。
「何かしら……?」
 横に滑らせ、感触を確かめる。何かの、溝のようだった。
 異状を察して、シリスが埃を呼び起こさぬようゆっくりと、彼女の横に移動してくる。
「調べてみる価値はありそうだね」
 顔を見合わせてうなずくと、二人は一度、慎重に敷地内から出た。目的さえ決まれば、いちいち手作業で掘り出す必要はない。
 シリスがいつもより苦心して精神を集中し、呪文の助けを借りて、緋の月の力を導く。
「〈ワールウィンド〉」
 力を抑えた小さなつむじ風が、木炭の山と黒い土埃を巻き上げた。それは家から少し離れたところで消え、巻き込んでいたものを地面に落とす。
 黒一色に埋もれていた床が綺麗に掃除され、木目の見える床板が現われた。長方形の板を並べたその床の真ん中に、灰色の、滑らかな石を切り抜いて造ったらしい、四角い蓋がのぞいている。
 地上に見える家の痕跡からは、広さも設備も、とても研究所の用に足るとは思えなかった。しかし、地下室があるというなら、納得できる。錬金術師が地下室に研究所を持っているというのは、考えてみれば、よく聞く話だ。
 リンファがそう考えをめぐらす間に、シリスが蓋に手をやり、引き開けようと力を込めていた。しかし、蓋はびくともしない。
「隙間に炭や埃が溜まって、動きそうもないな。熱で溶けてはいないようだけど」
「手段を選ぶ場合じゃないわ」
 リンファが、シリスの手を引いた。魔法の扱いに長けた高位魔術師は、下位攻撃魔法を、呪文なしで放つこともできる。
「〈ボムフィスト〉」
 身を引いたシリスの前に一瞬魔力の塊が凝り固まると、それは衝撃波となって、石の蓋をえぐった。蓋は半分ほどが粉と化し、残った部分も、幾筋もの亀裂をはしらせる。
 暗い下が見える穴から手を入れて持ち上げると、蓋は簡単に床にめくれ上がった。
「妙な匂いもないし、大丈夫そうね。油断は禁物だけど」
 リンファはレイピアを抜くと、カンテラ代わりの魔法の光球を左手の手のひらの上に生み出し、その動きを操って地下室に投げ込んだ。意外に綺麗な、石の床が照らし出される。
「大丈夫。様子を見てくるから、リンファはここで待ってて。何かあったら、援護を頼むよ」
 先に降りようとしていた女魔術師を制し、シリスは槍を手に、地下室に飛び降りた。

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2005年10月13日 (木)

セルフォンの赤い悪夢#03

 北方大陸製の柱時計が午後九時を示す頃、ようやく、シリスとリンファは警備隊の詰め所から〈疾風の源〉亭に戻って来た。
 店内は旅人だけでなく、仕事の後に仲間との友好を深めようという常連客もあり、盛り上がってきている時間帯だ。そんな中で、二人の旅人はいつものカウンター近くではなく、隅のテーブルの席に腰を下ろす。
 夜だけ雇われているウェイトレスが注文を取りに来ると、リンファがシリスの分も含め、適当に軽食を頼んだ。
「明日からが、調査の本番ね。これ以上死傷者を出さないためには、明日の昼間のうちが勝負よ」
 ウェイトレスが離れると、リンファはそっとシリスの暗い表情を覗いた。
 蒼白い顔をした青年は、視線を下に向けている。
「相手が血を欲しがってるなら、人数の多いところを襲うのは当たり前なのに……どうして、警備隊とかち合わないように巡回してしまったんだろう」
「血を求めてるかどうかなんて、わからないもの。予想できなかったことよ」
 白い手が、シリスの青ざめた頬に伸びた。その手に冷たさを感じ、絶世の美女は、その類まれな顔をしかめてみせる。
「温かいものを食べたら、早く宿に帰って休みましょう」
 どうして今日に限って上が満室なのかしら、と、無関係な他の客たちまで憎らしく思いながら、彼女は見回した。束の間、忙しさから解放されたらしいマスターの、何か言いたげな目と目が合う。
「ちょっと行って来る」
 依頼主でもあるのだから、報告くらいはしておくべきだろう。面倒に思いながら、彼女は向かいの姿に心配そうな一瞥を残して、カウンターに歩み寄った。
 その姿に見とれる酔っ払いたちも、何やらささやき交わす新顔たちも、彼女にとっては、いつも以上に意識の外にある。
「ずいぶん具合が悪いようだね。怪我でもしたかい?」
「いいえ。風邪をひいたみたい」
「じゃあ、すぐに温かいココアを入れよう。これはわたしからのサービスだよ」
 リンファは、礼を言った。しかし、普段から余り表情の変化がないその面が、少しも良い感情を示すほうには動かない。
「今日、警備隊に殉職者が出たの」
 唐突に切り出すと、警備隊に知り合いが多いマスターも、さすがに陽気な笑顔を凍りつかせる。
「確か……死んだのは、デルソン、という名前の隊員よ。もう一人怪我人が出たけど、シリスが治したの。何とか捕まえられれば良かったんだけど、あの場であれ以上戦うと、さらに犠牲者が増えたでしょうね」
「デルソンは、聞いたことがないな……しかし、ということは、きみたちは敵の姿を見たのかい?」
 温もりを感じさせる木のカップにココアを注ぎながら、マスターは目を丸くした。
「見たと言えば、見たのでしょうけど……結局それが何なのかは、わからなかった。でも、いくつかに可能性は狭められたはず……ひとつは、影に潜む系統の魔物。もうひとつは、姿を透明にする魔物。同じような能力を持つ人間。その両方を魔法として使える魔物や魔術師」
 その、リンファの説明で、元冒険者のマスターは、彼女が見たものが何となく想像できた様子だった。
「実体は見られなかった……もしくは、実体のない相手か。場合によっては、神官連中の手を借りることになるかも知れないね」
 神に仕える神官戦士といえば、再生と保護を司る蒼の月の力を導くような治癒や防御の魔法を得意とする者が多いが、実体の無い相手――特に幽霊や悪魔と呼ばれる類のものを浄化するのにも長けている。
 しかしリンファには、今回の相手が霊や精神生命体とは思えなかった。血を求める、鋭い爪を持つものには、肉体的な本能があるに違いないと思えたのだ。
「詳しいことは、明日調べれば足りることね」
 今日はもう、難しいことは考えたくない。
 彼女はマスターからココア入りのカップを受け取って、テーブルに戻る。組んだ腕の上に伏せていたシリスが、気配を察して顔を上げる。
「思い出したことがあるんだ」
 カップを受け取って礼を言うと、彼は少し気を取り直した様子で、口を開いた。
「昔、何かの文献で、姿を消す魔物の研究をしている錬金術師の話を読んだことがある。この辺りに住んでいたはずだ。あれは、カルヴェラ王国時代だろうけど」
 王国時代、と言っても、そう遠い過去ではない。ほんの十数年前まで、セルフォンはカルヴェラという名の都市国家だった。形骸化した体制に嫌気がさしていた人々が立ち上がり、弾圧で焼かれた東地区のスラム街など、今もほとんどそのままにしてある。
 そういえば、あの影はどこに逃げていっただろう、と、女魔術師は考える。あの影が消えた先、それは、スラム街だったのではないだろうか?
 考えてみる必要がある。しかし、それは明日の話だ。
「可能性の一つではあるけど、頑張るのは、明日にして。今日はもう何も起こらないから」
「だといいけど」
 肩をすくめ、シリスはココアを一口飲む。温かい、ほんのり甘い液体は、身体の芯を温める。少しだけ顔色を取り戻し、彼は、冷えた両手で大事そうにカップを包んだ。
 リンファの、あまり根拠の無いことばの通り、夜はただ、雨足の弱まった天候とともに過ぎていった。この、暗いセルフォンの街並みのどこかに、毎夜血をすすった爪を持つ存在が隠れているのか。
 多くのセルフォンの人々は何も知らず、それでも油断はすることなく、眠りについていた。

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2005年10月12日 (水)

セルフォンの赤い悪夢#02

 夜にならないうちに、夜のような暗さが街並みを包む。一度宿に戻ったシリスは、予定より早く、再び外へ出た。
「リンファ、相手は、雨を嫌がると思うかい?」
 いつもの淡い空色のマントに、竪琴と槍、その上にレインコートという出で立ちで、彼は周囲を見回した。本来まだ夜とはいえない時間だが、昼間と打って変わって、道行く人の姿が少ない。
「どうかしら。暑さに弱く寒さに強いなら……あるいは、狩がしやすい環境が好きなら、歓迎すると思うの」
 シリスが宿の主人に言付けて外に出るのを、当然のように、リンファも追った。彼女は魔術師らしく、魔法で雨風を防いでいる。
「警備隊の巡回とかち合わない経路をとろう。上手く会えるといいけど」
 警備隊の巡回経路は、宿ですべて頭に叩き込んできていた。
 街灯の蒼白い明りがぼうっと並ぶ通りを、槍を手に、シリスはリンファと並んで歩き出す。リンファは武器を手にしていないが、肩にかけた銀の鎖から、突き刺し用の細身の剣、レイピアが吊るされていた。
 ザーッという雨が叩きつける音が、足音もかき消す。視界も確かではなく、充分注意を払いながら、二人は中心街に歩を進めた。
「こりゃ、警備隊も大変だな」
 リンファは温かい空気の膜で身を包んでいるが、レインコート越しに冷たい雨に晒されているシリスは、時折寒そうに、革のグローブで包んだ手をさすった。
「もっと厚着してくるんだったわね」
「温かい地方だからって、油断したかな」
 美しい相棒のことばに苦笑を返して、シリスは深い水溜りをよけ、歩き続けた。そのかたわらで、美女は黒々とした空を軽く見上げる。
「今までの事件も、街中のほうが多いわ。いくら夜でも、郊外から進入したのでは、少しくらい誰かに存在を嗅ぎ取られるはず」
 声が消されぬよう、リンファはシリスに寄り添うようにして声を上げた。
「それじゃあ、地元の者が関わってる可能性が高いな」
「警備兵の目を騙して、ずっと温和な一市民として暮らしてきた誰かか、それとも……」
 不意に、何かが聞こえた気がした。
 うなり声とも、恐怖の叫びともつかない、低い声。耳を澄ますと、それはもう一度、雨音の間隙を縫って二人の耳に届く。
「こっちだ」
 声の主の方向がわかったらしく、シリスはブーツで水しぶきを上げ、駆け出した。右手を軽くレイピアの柄に当てながら、リンファが続く。
 建物の角を曲がり、小路に入る。窓から洩れる明りがた頼りなく、水の膜の上で揺れた。それを踏み越えて、さらに細かい道に入る。
 中心街からだいぶ逸れた、東地区の住宅街の奥で、異質な光景が展開されていた。
 暗く灰色に沈む街並みに目立つ、赤。
 あふれ出たそれは、雨に流され、石畳の上に広がる。
「しっかり!」
 リンファは、シリスの横顔に一瞬後悔の表情が浮かぶのを見た。だが、その感情を振り払うように、吟遊詩人は倒れた警備隊員のそばにかがみ込む。
 もう三人、警備隊員がいた。二人は、闇の向こうを見つめて剣を抜いているが、もう一人はかなり若いらしい。胸に深い傷を負って倒れた同僚を見下ろしたまま、動揺し、立ち尽くす。
「ああ、デルソンさん! しかっりしてください!」
 叫ぶ男と倒れた男のそばで、シリスが首を振った。もうすでに、出血が致死量に達していた。
 リンファがレイピアを手にしてその横を通り過ぎ、唱えていた呪文を完成させる。破壊を司る緋の月の力を導き、解放の句を告げた。
「〈ファイアボール〉」
 赤く燃える球が雨にも消えることなく、怯む警備隊員たちの間を抜け、闇へ飛んだ。それは石畳の上で小さく爆発し、周囲を照らし出す。
 そこにはもう、動くものの気配は無かった。
「しかし、今、確かに……」
 警備隊員たちは、まだ相手が近くにいることを確信している様子で、カンテラを掲げる。
 そのとき、事切れた男のそばで下に視線を向けていたシリスは気づく。
 頼りなく揺れるカンテラに照らされた地面で、淡い影が揺れる。彼自身の影から少し離れたところで、それは動き出した。近くに立ち尽くす、別の影へ向けて。
 一瞬だけ、不思議に思い――次の瞬間には、身体が動いていた。
「おうっ」
 若い警備隊員の唸るような声は、ほとんど雨に消される。シリスに突き飛ばされてバランスを崩し、のけぞるその右腕から、血がしぶいた。
「みんな気をつけて! 影だ!」
 吟遊詩人が、普段から鍛えられた声を張り上げる。
 彼の短いことばで、リンファも警備隊員たちも、その意図を察したらしい。全員が、それぞれの影を確認し、誰のものでもない影に気づく。
 それは、背中を丸めた大きな獣のようにも見えた。顔と思われる場所に角のような突起も見えるが、人間がうずくまっている姿だと思えば、そう見えなくもない。
 それは、滑るように、素早く移動した。目の前に影を見た警備隊員が驚き、思わず剣を突き出すと、彼は手応えを感じたように、わずかに表情を変える。
 影は、驚いたように身を退き、負傷した警備隊員の脇をかすめて逃走した。呪文を唱えていたリンファが火炎球を投げつけるが、素早く移動する影はその明りをギリギリでかわし、深い闇に溶け込んでいった。

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2005年10月11日 (火)

セルフォンの赤い悪夢#01

第一章 闇を裂く爪痕

 ナーサラ大陸の玄関と呼ばれる、貿易都市セルフォン。大陸最大の国土を誇るパンジーヒア王国でも、最も人口密度が高く、最も人と物の入れ替わりの激しい都市だろう。
 この街で散歩を趣味にでもしていれば、毎日のように、それまでの一生で見たことのないような姿を目にすることができる。遠くの島々から来た民芸品、科学の進んだ北の大陸から運ばれてきた何かの装置、どこかの遺跡から出土したらしい古文書、そして、顔に紋様を施した少数民族の夫婦や奇怪な小動物を連れた魔術師など。
 だが、市場の露店商たちの中でも、長年商売を続けている者たちは、密かに思うのだ。世の中には、もっと貴重で神秘的な存在があると。
「おじさん、今日は変わった商品が多いね」
 まさに、神話から抜け出てきたような姿の吟遊詩人が、顔見知りの露店商に声をかけた。露店商は愛想笑いではない笑顔で、相手を見上げる。
「シリスにそう言ってもらえるなら嬉しいねえ。うちは、よそで見られない商品が売りだからね」
 満足げな声に、一見して女とも見える詩人が、端正な顔にほほ笑みを浮かべた。
 ラベンダー色の長い髪に、炎のごとく赤い目。一度その姿を見た者は忘れ得ない青年は、しかし、完全にセルフォンの空気に溶け込んでいた。外に出る者、外から来る者、数多い都市だが、ここに住む者の多くは、ここを拠点に旅する彼の存在を自然のものとして受け入れていた。
 もっとも、彼の背後に立つ人物は、今でも少々、特殊な扱いを受けることがある。
 初対面の男は誰もが知りたがるその名をリンファという、絶世の美女。白い袖の無いワン・ピースをまとい、深海のような青い長髪を背に流した姿は、美の女神そのものだ。
「何か買うつもり?」
 リンファは、シリスほど市場に興味がないらしい。それを少し残念に思いながら、露店商は、目の前の布の上に並べた缶詰のうち、一番上等と思えるものを手に取る。
「これは、北方大陸の上流階級で人気の珍味だよ。ダグルとかいう小さな島でしか採れない豆を加工したものだと」
「へえ。北方大陸の味が合うかな?」
「腹痛を起こしたら、文句はラフディウムの工場に言ってくれ。安くしておくよ」
 親指を伸ばして、左手の指を四本立てる。四百ターラン、銀貨四枚という意味だ。手に入りにくい珍味としては、破格の値段である。
「じゃあ、試してみようかな」
 銀貨を手渡し、シリスは受け取った缶詰をポーチに入れた。だが、彼はすぐには店の前を動かない。
「ところで……最近、何か変わったことはないかな?」
 少し周囲を気にするように見回しながら、声をひそめ、問いかける。
「おや……仕事の用事だったのかい? 何かあるといえば、毎日何かあるし、わたしゃ、〈疾風の源〉亭のマスターでも知らないようなことは……」
 それほど期待をかけられているわけではないと自認しながら、露店商は、役に立てないことを残念に思った。
 シリスは、やはり一応聞いてみただけなのだろう、それほど落胆した様子もなく、礼を言って身を引いた。
「それじゃあ、また」
「気をつけてな」
 今までも何度か交わした、型通りの挨拶を最後に、二つの姿が離れていく。表向きには、単なる商人と客の別れだ。
 しかしなぜ、シリスは周囲を気にしていたのだろう――しばらくして、露店商は思い返す。
 冒険者たちの憩いの場である〈疾風の源〉亭で依頼を受けたシリスたちが、密かにセルフォン警備隊に協力して事件を解決したことも、何度かあった。そのどれもが公開され、少なくとも秘密にされることはなく、それを気にする者は気にし、そうでない者は、気にもかけなかった。
 何せ、先ほどシリスに言った通り、この都市では、毎日色々なことが起こるのだ。治安は決して悪くは無いが、毎日どこかでは喧嘩沙汰や詐欺、あるいはもっと凶悪な犯罪が起こることも珍しくない。
 良いものも、悪いものも、様々なものが集まる。それがこの都市の短所であり、面白いところでもある――それを知った上で、人々は暮らしていた。
「ま、あの二人なら、何とかやるさ」
 自分に言い聞かせるようにつぶやき、露店商は、新たな客を呼び込もうと手を叩き始めた。

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