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2005年11月19日 (土)

セルフォンの赤い悪夢#33

「本当に一人で行くんだね」
 マスターが、食事を終えて壁に立てかけていたレイピアを吊るして立ち上がる美女に声をかけた。
 そろそろ夕食をとろうという客で、店内は賑わっている。陽気な談笑に満ちた空間で、カウンターの一角だけが、別の雰囲気に包まれていた。
「ええ。一人で充分よ。わたしは誰かさんと違って自分ができること以上はしないから、何も心配することはないわ」
「ああ。リンファは、無謀なことはしないだろうけど……気をつけてな」
 マスターに同意するように、フートが、にゃあ、と鳴いた。
「彼のこと、頼むわ」
 黒猫の頭をひと撫でし、そう言い残して、魔女は〈疾風の源〉亭を出て行った。
 人目を引かずにいられないその姿がドアの向こうに消えると、注目していた一部の客も、自分たちのテーブルに視線を戻す。夕食を求めて来た冒険者らしい一団が、またひとつ、テーブルを埋めた。
 少し遅れて、栗色の巻き毛の、若い女が駆け込んでくる。
「やあ、シェサ。そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「こんばんは、マスター」
 ウェイトレスは店内の盛況ぶりを見て、急いでエプロンと頭巾をまとう。
「珍しいですね。今日は宿泊は少なめのはずだし、シリスさんの歌もないのに。フート効果かな」
 彼女が盆を取りながら見下ろすと、黒猫は大きな口を開けてあくびをした。
 シェサのことばに、マスターは、重要なことを思い出す。
「シェサ、ちょっとここを頼まれてくれるかい? 病人の看病を約束していてね……破ったら何をされるか……」
 盆に、薬草を刻んでまぶした雑炊とコーンスープを載せる。
 何かに追い立てられているような様子に苦笑し、シェサは注文のメモに目を落とす。
「しっかり看病してください。ここの顔役なんですから」
「すまないね」
 階段を危うく踏み外しそうになりながら、盆を両手に大慌てで二階へ向かう後ろ姿を、ウェイトレスと黒猫は、おもしろがるような目で見送った。

 部屋は、夜闇そのままに染まっていた。マスターは机の上の燭台にローソクの火を灯し、横たわる姿を覗き見る。
 病人は、気配で目を覚ましたのか、眩しそうに身じろぎした。
「ああ、マスター……」
「起こしてしまったかい? 悪いことをしたかな」
「いいや、それより……」
 机の上に置かれた盆には目もくれず、意識がはっきりするなり、シリスは必死の表情で、マスターを見上げた。
「服、貸してほしいんだけど」
「破かれるから嫌」
 即答されると、吟遊詩人は少しの間、口を開けたまま茫然とする。
 だが、やがて、我に返って相手の袖を引っ張った。
「だ、だから、あのコートはちゃんと後で弁償するって! 普段着ないような古着でも、何でもいいんだから。浴衣くらいはあるでしょう?」
 〈疾風の源〉亭には、一度に二、三人が入れる、大きめの風呂が備え付けられていた。大抵の宿では、せいぜい水がめの水で布を湿らせ、身体を拭くくらいのことしかできない。温泉付の宿となると、ナーサラ大陸では極わずかだ。
 浴衣、というものが存在する数少ない宿だが、マスターは首を振る。
「コートは弁償しなくてもいいけど、服は貸せないなあ……リンファのいない間に余計なことをしたら、わたしが後で燃やされるよ」
 マスターに迷惑は掛けられない。シリスは仕方なさそうに口をつぐむ。
「まあ、無茶なことは考えずに、たまの休みだと思ってゆっくりすることだね。できるだけ食べて、ちゃんと薬を飲むんだよ」
 料理を渡し、部屋の壁から吊るされたカンテラに火を入れると、マスターは部屋を出て行く。シェサは店のことを知り尽くしているとはいえ、店主がいつまでもカウンターを離れているわけにはいかなかった。
 ドアが閉じ、シリスは一人になる。
 大人しく雑炊を食べようと、スプーンを手にしかけ――それを、取り落とす。
 窓の外からの、何かを引きずるような音が、彼の耳に届いた。一瞬表情を引き攣らせると、彼は槍を手に、窓に歩み寄る。
 カーテンが引かれた窓の外に、夜闇が広がっている。闇への恐怖が、じわじわと湧き上ってくる。
 このカーテンの向こうに、獣が待ちかまえているかもしれない。そんな考えが、脳裏に浮かぶ。
 リンファの話からして、戦獣は魔術師の手から自由になったはずだ。もはや、彼らを縛るものは何もない。自由に闇の中を動き、エサとなる相手を捜す……そして、セルフォンの街は、エサ場として彼らが解放された場所からもっとも近く、大きな場だった。
 カーテンの向こうに戦獣がいたとしてもおかしくはない。
 それにもし、戦獣がエサに相応しい、魔力を感じ取る能力を持っていたとしたら? その可能性は、少なくない。
 使い慣れた槍を握る手に、ギュッと力が入る。ただでさえ熱で速い鼓動が、やけに大きく耳もとで響く。
 目眩を感じながら、シリスは首を振り、嫌な考えを追い出そうとした。
 戦獣が街中にいるなら、なぜ、リンファはそれらと戦うことを想定していたのか。彼女は、魔術師の居場所も、戦獣の行方も知っている様子だった。
 リンファを信じよう。
 右手に槍を握ったまま、左手でカーテンを開ける。
 飲食店街を行く人々でごったがえす西通りが、眼下に広がる。通りの中央辺りに、酔い潰れたらしい同行者を引きずって端に移動する男の姿があった。
「はあ……」
 思わず長い息を吐いて、その場にへたり込む。
 こんなことで体力を消耗していては、リンファを追いかけることなどできない。自分を叱咤して、再びスプーンを拾い上げ、ほとんど機械的に食事を口にする。
 少し残して盆を机に置き、眠くなるので薬は飲まずに、家捜しを始める。リンファが彼の荷物を隠すにしても、常に持ち歩いているわけではない。この〈疾風の源〉亭内にはあるはずだ、とシリスはにらんだ。
 しかし、どこをひっくり返しても、荷物は出てこない。マスターが預かっているとしたら、取り返すのは難しい。
 あきらめかけて、手にしていたカンテラを床に置いたとき、ベッドと床の隙間に、白いものが見えた。
 慌てて、それを引っ張り出す。シャツかもしれない、と希望を抱いて広げてみると、長袖の、ワン・ピースのスカートだった。
 サイズは、入らなくはない。
「あう……」
 白い服を広げたまま、しばらくの間硬直し、また少しの間、悩む。
 だが、やがて、彼の顔に何かを捨てたような、清々しい表情が広がった。
 ワン・ピースのスカートを身につけると、ベッドのシーツをフードのようにして頭から被る。槍は、スカートの内側に隠した。
 とにかく、店を出てしまいさえすれば、マスターやシェサは遠くまで追うことはできない。もっとも、顔馴染みの冒険者がいると話は違った。シリスは、今夜の客が地元の住民中心であることを祈る。
 余った毛布を丸めてベッドの上を膨らませる工作をしてから、少しドアを開け、廊下を確認する。誰もいないと見て、足音を立てず、素早く階段まで移動した。
 階段の下からは、賑わいが聞こえてくる。
 一気に駆け下りてみるか、気配を殺してみるか。
 とりあえず、誰かの視線を受けるまではゆっくりいこうと、気配を殺しながら階段を降りる。今日は宿泊客が少ないので、姿が見えるとどうしても注意を引いてしまうことは、わかっていた。
 テーブルはほぼすべて埋まり、水夫たちが陽気に会話と食事、酒を楽しんでいる。冒険者らしい者の姿もあるが、顔見知りの者はなく、ドアからも階段からも遠いテーブルだ。
 そっと階段を降りていたシリスは、最後の一段へつま先を伸ばそうとして、動きを止める。
 フートが、一段目に座り、無邪気な目を向け、首を傾げていた。その口が開かれるのを見て、シリスは弾かれたように駆け出す。
 フートが、みゃあ、と鳴き、同時に、マスターや周囲の客が、テーブルの間を駆け抜ける姿に気づく。
 白い姿がドアの取っ手に手を伸ばしたところで、ようやく、マスターはその正体に思い至った。
「待った!」
 マスターの声に背中を押されたように、そばにいたシェサが駆け出した。
 素早く、ドアの向こうへ消えようという白い服の裾をつかもうとする。しかし、彼女の右手は、寸前で空を切る。
 ウェイトレスがドアを開けて見回すと、そこにはただ、人込みが流れているだけだった。

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