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2005年11月15日 (火)

セルフォンの赤い悪夢#30

 力を失った身体を、獣が揺さぶる。止めを刺そうと、長い爪が血に染まった胸の中央に押し当てられた。
 途端に、灰色の獣は横に弾き飛ばされる。
 獲物はピクリとも動かず、もう、捕食を邪魔する者などないはずだった。獣が怪訝そうに振り返り、警戒の目を向ける先にいるのは――もう一体の、獣。
 翼のある戦獣は、威嚇するように身がまえ、もう一体と対峙する。そっと、横たわる獲物のはずの姿に近寄り、もう一方から護るように前に出る。
 それを、捕食を邪魔された獣が牙をむき出しにして唸る。仲間意識などない。ただ、主人が同列に扱っているので、傷つけないでいただけだ。最優先されるのは、戦闘意欲。
 しかし、その意欲も、状況が変われば失われる。
 お互いをにらみながらかまえると同時に、ただでさえ戦闘の準備のために高めていた彼らの鋭い聴覚が、近づく足音を捉えた。続いて、小さな、人間の声。
 高熱をともなう光が弾けた。結界を構成する網の一部が欠け、それは、崩壊の引き金となる。
 あっさり戦いを止め、獣たちは逃れた。本能的に、今ここで戦うべき相手ではないと悟ったらしい。
 彼らは姿を消し、静かに、闇のなかに溶け込んでいった。
 窓にカーテンがかけられているのか、薄っすらとだけ陽が射し込む部屋の天井が、ぼんやりと視界に広がる。
 何か温かいものに包まれているのを感じて、シリスは周囲を見回す。簡素で機能的な木製の調度品から考えるに、見慣れた、いつもの〈疾風の源〉亭の客室だった。
 とりあえず生きているらしいと知って、苦しい呼吸の中、ほっと息を吐く。
「大丈夫?」
 すぐそばに、見慣れた姿があった。リンファは脈を計るようにシリスの首筋に手を当ててから、額に乗せた布を取って、桶に張った冷たい水で洗う。
 少しぼうっとしながら見渡し、シリスは机の上に竪琴とポーチ、そして置いていったままの楽譜が載せられ、槍が壁に立てかけられているのに気づき、安堵する。
「ああ……今は、いつ……?」
「一晩過ぎた、翌日の昼過ぎよ。何か、食べられる?」
「今はいいよ……ところで、学院のほうはいいの?」
 本来なら、リンファは魔法学院で講義を受けている時間帯だった。
 女魔術師は、苦笑する。
「今日は休んだの。情報収集の必要も、もうないでしょう? 学院では、これ以上の捜査の進展は見込めそうもないわ」
「そう……か。それにしても、マスターには悪いことをしたね」
 シリスは、熱で上気した顔に苦笑いを浮かべた。
「コートもなくしてしまって……後で弁償……を……」
 と、胸元に手と目をやって、彼は気づいた。直に、ベッドの中の温もりを感じていることに。
「こ、これはどういう……あああの、服は……!」
「獣にボロボロにされたじゃないの」
 平然と答えるリンファに、うろたえたシリスはますます顔を真っ赤にして、ブンブンと大きく首を振る。
「そうじゃなくって! ど、どうしてこんな……」
「服を着せてる余裕なんてなかったし、治療にはこのほうが便利でしょう。大変だったのよ。見つけたときは、呼吸も弱くなってたから」
 シリスの身体には、切傷もアザも、ひとつも痕を残していなかった。医者や治療の魔法を得意とするジェッカの神官を呼び、何とか持ち直すまでは、〈疾風の源〉亭も大変な騒ぎだったという。
 事情は理解したものの、シリスは、リンファに助けられたことを改めて考えて、天を仰ぐつもりで天井に目をやる。
「ああ、もう駄目だ……」
「そんな死にそうな声出さないで。見られて減るものでもないでしょうに」
「だから、そういう問題じゃ……」
 抗議しながら起き上がろうとして、慌てて毛布を顔半分まで引き上げる。
 リンファには、その慌てぶりがおかしくて仕方がない。思わず口もとに笑みをこぼしながら、彼女は、相手の頬に手を置いた。
「いい? 後はわたしに任せて、今回は、もう大人しく寝ているのよ。すぐに、終わらせるから」
「リンファには、彼の居場所がわかるのかい……?」
「ええ」
 答えて、魔女は立ち上がる。
「でも、まだ早いわ。あと少しだけ、準備をしなくっちゃね」
 ドアに向かって歩き出す彼女を、シリスは心配そうに見つめる。引き止めたそうな、ついて行きたそうな表情に、リンファには思えた。
「一人で、あの獣たちについて調べるのは危険だよ」
 魔女は振り向き、ほほ笑んだ。
「大丈夫よ」
 一言残して、美しい姿は、木製のドアの向こうに消えた。


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