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2005年11月14日 (月)

セルフォンの赤い悪夢#29

 シリスはとっさに、檻に沿って横に走る。だが、気がついたときには、その右腕から血が流れていた。
 彼がもといた場所に、左手の爪を血に染めた戦獣が姿を現わしている。以前戦った戦獣に劣らぬ、目に映らぬ速さ。
 対抗するには、先制攻撃しかない。
「〈シェイブウインド〉!」
 宙に浮いた灰色の球体が、その内部から無数の風の刃を撃ち出した。敵を跡形もなく切り刻む、高位の風系攻撃魔法だ。
 風が鳴る。真空の刃が、戦獣の左手の甲を浅く薙ぐ。それを見下ろし、一瞬驚いたように目を大きくするが、すぐに戦闘本能を刺激されたように身がまえ、消える。
 シリスは、見てから反応しては間に合わないと知っていた。
「〈ボムフィスト〉!」
 呪文なしでも使える下位攻撃魔法を、目の前に放つ。
 戦獣の勢いが押し返された。その瞬間だけ、風の刃が命中し、厚い皮膚の表面にいくつか切り傷をつくる。
 しかし、ただそれだけだった。相手がバランスを崩したわずかな時間も、武器も持たない状態で、さらに閉じた空間内でしか動けないのでは、意味が無かった。
「ぐっ」
 鋭い痛み。
 思わず、喉の奥から呻きが洩れる。左の足首に三本の切傷が走り、血がしぶいた。
 痛む足を引きずり、何とか相手と距離をとろうとしながら、檻の外に赤い瞳を向ける。木々の間には静寂と闇が広がり、人の気配も何もない。
 結界の外にいたはずの魔術師は、姿を消していた。遠くに見える街の灯は闇の中に揺れ、ひどく頼りない。
「リンファ……」
 祈るような気持ちで、緋の月が顔を出した空を仰ぐ。
 痛みのために、集中するのが難しくなっていた。それでも、なんとか脱出しようと、呪文を唱える。
 途端に背中に衝撃を感じ、枯葉の上へ吹き飛ばされ、前に転がった。仰向けになると、鋭い目が見下ろしてくる。
 鋭い爪が、右の太腿をつらぬいた。苦痛に顔をしかめ、反射的に逃れようと手で枯葉を掻くが、戦獣はのしかかるようにして動きを封じる。
 シリスは、死の気配を身近に感じた。それなのに、身動きもとれず魔法を使える状態にもない彼には、何もできない。
 不意に左の手首をつかまれ、強く引かれた。獣は彼の上をどき、獲物を軽々と振り回す。
 浮遊感に包まれた直後、背中から叩きつけられる。そして、声を上げる間もなく、振り子のように反対側の地面めがけ、今度は胸から落とされた。
「う……」
 肺を圧迫されて息ができず、頼りない枯葉の地面を掻いてもがきながら、顔を上げる。意識が朦朧として、奥にうずくまったままの戦獣がぼやけて見えた。
 呼吸が苦しく、息を吸い、あるいは吐くたびに、胸が痛んだ。両手両足、脇腹や肩、背中に頬と、あちこちに細く赤い線が引かれ、血を流し続けている。
 脇腹を蹴られ、転がされて仰向けになると、鋭い爪が襟元に触れ、丈夫な服を楽々と引き裂く。借り物の茶色のコートが無残にボロ布と化し、切傷と打撲による青紫のアザを負った素肌が晒された。
 寒さを感じ、見上げる。赤く弧を描く月の、血のような色の光に、戦獣の牙と爪が照らし出された。
 徐々に気が遠くなるのを感じながら、見上げる目に、戦獣の長い爪のうちの真ん中のものから、細い針がせり出されるのが映る。
 光に照らされた針の先端に恐怖を感じ、シリスは逃れようと身をひねった。
「嫌だ……あ……」
 ブスリ、と針が首筋に突き立てられると、衝撃に、吟遊詩人の身体が痙攣した。
  催眠効果のある毒でも込められていたのか。間もなく、意識が一気に闇の底へと落ちていく。
 最後に消える寸前の一欠片の感覚で、彼は、長い牙が肩に食い込むのを感じていた。

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